私は8月6日が嫌いだった
8月6日が近付くと、街は騒がしくなってくる。中学生くらいになるとこの騒がしさに居心地の悪さをいつも感じていた。政治の道具にして騒ぎにきているだけだ、彼らに服喪と祈りの気持ちはないのだと思っていた。
直接体験した者からは、いくら視覚化され言語化されても本当のところは分からないと言われてきた。実際どんな言葉を聞き、どんな資料を見たとしても、それは彼らの経験したものの断片にも足らないものだろうという実感がある。理解したい、受け継ぎたいと思えば思うほど、絶望的な限界と孤独を感じる。
自分は当事者側の「内側」の人間だと言う歪んだ逆選民意識のような思いと、だからこそ感じざるを得ない直接体験者たちとの壁。「平和」「ヒロシマ」ということばを斜に構えてしか見られない屈折した感情。そういうジレンマの中で、「外側」から屈託なく平和をさけび行動を起こせる人達への嫉妬もある。
生まれて初めて、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の会場内に入り遺族席にすわった。式典会場の中で静かな祈りに包まれると、そういうことが相対化される。自分の中にあったつまらないこだわりが消えていく。「内側」にいれてもらった感じがしただけなのかもしれない。でも確かに、8月6日の喧噪を今までのとは違うった感じ方で穏やかに見ている自分がいた。
なにが起こったかということを事実として知ること、それは場合によっては自らの悲劇を相対化することにもなる。確かに広島と長崎の被爆は人類がそれまでに経験のしたことのない出来事ではあった。だが、「福島原発で放出された熱量の総量がウラン換算で、広島型原爆の20個分」といわれたとき、「広島で1年で1000分の1に低下する放射線残存量が福島では10分の1にしかならない」という事実を知った時、私はハッとする。そして一瞬にして、大事な家族と日常を波にさらわれた人達、瓦礫の山になった町をこの目でじかにみたとき、私は何を思い、感じるのだろう。
ありようは違えど事の困難さは同様に、いやもしかするとはるかに複雑で深刻であることを客観的に突きつけられる。重い殻を背負っているのは自分だけではないことを実感として初めて知る、その己の無神経さに気づかされる。
当たり前の生活を失い大事な人を失う悲しみ、そこにあるひとつひとつの命の重みに重い軽いはないというあたりまえのこと。
そんなことを感じながら息子と原爆ドームの周りを歩いた。

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