境界線
私は職場で連絡を受け、その足で車を飛ばし帰る。
午後3:32 尾道を発つ。
車中妻らから連絡を受ける。「何時に着けるか」。すでに一度止まりかけた心臓を、私がかえるまで何とかということで心臓マッサージで復活させ、人工呼吸器で持たせているらしい。千葉の姉に連絡。
午後4:40 病室につく
ポンプの動きにあわせ上下する母の肺をみて、これはポンプの律動であって人の生ではないと直感する。医師から経過・現在の状況と、もって今晩中か、何時間後かのことと説明をうける。
結果的にそれから1時間もかからなかった。ベッドの横にいて、ただその時を待つ。デジタルのメータが示す脈と血圧の値を見ているうちに、一体今自分は何を待っているんだろうと不思議な気分がしてくる。
蝋燭の火を見守るように待っている。なにを待っているかというと消えるその瞬間をまっているわけだ。考えてみれば、永遠普遍のものであれば見つめる対象にはならない。見ていたって変わらないのだから。そうか。変わり遷ろうからこそ私達は対象を見つめるのか。
ん?この「待つ」状態が終わるのは死ぬ時だな。ということは、私はいま母の死を待っているのか。待つという行為は「その結果が望ましくない」時にすることだったか?どうだったっけと混乱するのである。私は望まないはずの母の死を待っているという不思議な状態に置かれてしまった。
このような、臨終前の時間帯の、命が最後にゆらめく時間帯というものの認識は一昔前はどうだったのだろうか。今のようなデジタルな可視化できる器械がなければ、そのゆらめきは認識できなかったのではないか。「もうあぶないな」と囲んでいるみなは、なんとなくは分かっていながら、それはいつくるかわからないものとして待つ。その瞬間を医師に確認してもらい「ご臨終です」ということばを発されるまでは、確かに「生き」ている。onはonだ。「死」が立ち現れる瞬間まで、生きていることを信じ死なないでくれと声をあげることができる。そこにある時間は、量的に(空間的に)把握することのできないものだ。ベルグソンのいう「純粋持続」とはこれかとも思う。
ところが、そのゆらぎの時間がデジタルで可視化されると、ゴールであるゼロ状態を意識する。数値の下降をみれば、残された時間を量的に意識する。いつくるかわからぬOffの瞬間まで生を期待し信じるという昔ながらのドラマチックな臨終の場面はなくなってしまう。そして目盛を見つめながら「順調」に減っていく「残された時間」を待つことになってしまう。
5:21 脈が40を切りランプの赤がつく。
5:22 脈の数値が0になる。
5:25 ドクターが確認、死亡時刻は5:25分となる。
悲しむ暇もなくその後のことを処理し、どたばたの中で臨終の瞬間のことを思う。待てよ、私は、母の死を、あのデジタルな目盛がゼロをさしたことで認識したが、あの器械のゼロの目盛はなにを意味するんだろう。器械が測れる電気的な信号のあるレベル以下になってしまったと言うだけであって、本当に完全なゼロだったんだろうか。針は振れはしないが、微かな脈ともいえぬような命のかけらがあったんじゃないだろうか。
物体としては、(例えは悪いが、締めたばかりのまだ活きのいい魚のように)なんら生体と変わりは無い。健康体ならすぐさま移殖臓器の切り出しが始まるではないか。
人の死というものはいったいどこで決まるんだろう。生と死の境は、ミクロにみたときどこで決まるんだろう。脳が活動していなければ心はもう失われているのだろうか。母の精神活動はもう失われているんだろうか。ただの「物体」なんだろうか。本当にそれは脳の活動なんだろうか。理系の人が笑うであろうレベルの問だというなら、笑えばよい。そういうことを、あらためて揺さぶられてしまった。
一週間ほどして、なにかの拍子に手にした臓器提供カードに、迷いなく提供の意思を書き、日付を入れ、妻に署名をしてもらった。
死んだ私が言います。
私は、今脳死状態です。脳波もないし、ポンプを止めれば即心臓も活動を止めます。死んでいるものとしてもらってかまいません。ですが、私自身は生きています。
私の臓器のあらゆる部分を必要とする人に使ってもらってください。どこでも、どんなかたちでも構いません。ただし、私はそれを生きた存在として行いたい。死んだ者の戯言ですから無視してもらって構わないのですが、私は生きながらに臓器提供をしたいのです。私が人としてできる事はこれくらいのことです。
そんな気分だった。

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