2011年9月7日水曜日

「わかりやすさ」への疑い

(2003.9 広島女学院大学チャペル便り掲載)

 授業で何かがうまく説明できた(と思う)とき、そして学生からも分かったという反応があった瞬間があると教師はうれしい。しかし、まてよ、と思う。本当にそれでいいのか。私は事をわかりやすくするために資料をねじ曲げてはいないのか。いや、そもそも本当に自分は説明しようとしている対象を正確に理解しているのかと思いはじめて恐ろしくなる時がある。
 私たちのまわりには、そんなに単純には説明できないことがらを、簡単に説明し、結論づけているものがあまりにも多い。マスメディアにはそういうものがあふれている。ものの本質をみないでわかりやすい結論を与えてしまい思考停止におちいる。
わかりやすい授業をめざしているときに、ふと、自分がやっていることは、これと一緒なのではないかと思う。わかりやすさ、良い反応をもとめるあまり、複雑な現実を必要以上に単純化して説明していないか。行き過ぎた解釈・早急な結論づけに走っていないかと思う。学生にそれを見ぬく目があればよい。おまえの授業はうさんくさいぞと。おもしろいけど本当かと声をあげる力があればよい。そういうだけの本物を見ぬく目を私たちはそだてているのか。いくら、授業の表面的なテクニックがすぐれていても、中身がなければ「あなたの話はつまらない」といえる本物の力をそだてているだろうか。
 自分が学生の評価を受けるときにいつも思う。学生に媚びていないか。おまえは本当の力をつけているか。学生の成長をスポイルするような「わかりやすさ」を求めてはいないか。
 過激で、単純な主張はおもしろい。ややこしいこと、とりとめのないこと、矛盾だらけの現実のあれこれを、まじめに誠実にとらえようとすると、それはあまりおもしろくないものになる。なにかのテレビで見たなかでのことばだが、飲食業では食べてすぐ「おいしい」と客に思わせるのは簡単なのだそうである。単純で過激な味にすればいい。すぐはよく分からないが、あとになって本当によさがわかるようなものは、今の時代やっていけなくなりつつあるとしたら、それは悲しいことである。
わかりやすさは大事である。しかしそれは、事実を丁寧に慎重にみつめること、時間をかけ論理性に磨きをかけていくこと、そして相手への思いやりと敬意に支えられた表現の陶冶によるべきである。
ではどうすれば本物を見抜く力がつくのか。本物は時を越えて生き抜く力を持っている。偽物は消えていく。時を越えて生き抜いたものとは古典とよばれるものである。文学でも音楽でも映画でも絵画でもいい。これに多く触れることである。決して簡単ではないだろうけれども。