2012年12月4日火曜日

私の先生(1)佐野先生ご夫妻

広島県安芸郡府中町若竹保育園の佐野先生ご夫妻

私が人生で始めてであった先生。
 
 園長の佐野文枝先生は、ピアノがお上手で「ピアノ先生」と呼ばれていた。お遊戯会の挨拶の役を仰せつかったときにお部屋で練習したことを思い出す。やさしい先生 だった。当時矢野保育園で保母をしていた母は、私を乳児で園にあずけた。母は産後かなり早い段階で職場復帰をし、普通は預けられないような月齢での保育をお願いしたのだと聞いたことがある。ずい ぶんあちらこちらに迷惑をかけながらの子育てだったらしい。

ご主人の佐野先生は、体格が大きくてめがねをかけたやさしい先生だった。

園庭でいつも野球かサッカーをしてくださる。野球の時は子どもをホームベースの前にならばせて、「こっちがカープ、こっちがジャイアンツ」とチーム分けをされる。まだカープが弱く、朝の体操も「巨人の星」の主題歌でやっていた時代。「カープ」と言われた方ががっかりし、「ジャイアンツ」といわれたほうが喜んでいたのはご愛敬だ。後に知ったが早稲田大で野球をされていたらしく、野球をさせたいということについては特別な思いをお持ちだったのかもしれない。サッカーなぞは、手を使ってはいけないよというだけでゴールがどこかも分からなくなるようなお団子サッカーだった。園庭からいつのまにか裏庭までいってしまって、みんなでボールをおっかけて敷地内をぐるぐる回っていたこともある。




 いまになってみればあの小さな保育園の狭い園庭が私の世界の始まりでありすべてだった。小さく狭い家から父に手を引かれていく保育園までのあの狭い道は、こどもの私にとっては広い道路だった。

もうおひとり。お世話になった先生が寺田先生。

ベテランの先生で、母もなにかと頼りにしていたのであろう、寺田先生は担任だったかどうかも定かではないが、お名前とお顔はいまでもよく思い出せる。寺田先生のご主人は個人タクシーを営んでおられ、仕事で迎えの遅くなった母は、園のうらにあったこの寺田先生のご自宅でわたしを預かってもらっていた。なぜだったのか「ゴンドラおじさん」と呼ばれていて、ご自宅のお風呂にいれていただいた思いでもかすかに残っている。

大事にされ、柔らかく優しい愛に包まれていた時代だった。