2012年2月10日金曜日

家族を描いた作品としての「生きる」

いま、NHKのBSでは、『山田洋次監督が選んだ
日本の名作100本家族編』が順次放送されている。
先日は黒沢明の「生きる」が放映された。

これが「家族編」というカテゴリーで
ラインナップにあがっていること自体に
あれ?「生きる」が家族をテーマに扱った映画?と
思いながら、久しぶりに「生きる」を見た。

主たるテーマはやはり、「今を生き切ること」のむずかしさだろう。
余命のないことを知った主人公が、
最後に生きることの意味をみつけ
もう一つの命を得る。
最後の仕事に奔走し、命を生き切る姿と
それをとりまくものの姿をとおして
天命をしり今この瞬間を生き切ることが
いかに難しいかを描いたものだ。

さて、「家族」というキーワードを頭において
見ている。すると、確かに息子夫婦とのやりとりのなかに
主人公の家族のありかたが描かれていることに
あらためて気づかされる。
家族というより、父と息子のすれちがいの悲哀である。

息子に胃がんを告白しようとすると
若い女性との関係を詮索され、なじられる。
そして、妻を早くになくし、男手一人で息子を育ててきた
なかの、陰のある記憶がつぎつぎと思い浮かぶ。

ヒットを打った息子を自慢しようとした次の瞬間、
盗塁失敗で憤死した姿に「あれは私の息子なんだ」
という言葉を飲み込む姿。

息子の盲腸の手術にたちあわず仕事に戻る姿。

そんな記憶をよみがえらせながら
光夫!光夫!光夫!光夫!と二階の息子夫婦の部屋を
見上げながら心のなかで叫ぶ。

思わず戸をあけようとしたその時、息子の部屋の電気が消える。
主人公はそのまま階段をおりる。

親としての多くの後悔と、追い打ちをかけるように降り注がれる
酷薄な息子の言葉と振る舞い。

私の父親が、認知症を進行させながら死んでいくその時
あの顔、あの声で、私の名前を連呼しながら死んでいく姿を
想像し、その思いに気付き愕然とする。
次の瞬間、私自身が同じように年老い、命の終わりを
自覚し、息子の名前を連呼しながら、
絶望的孤独の中に沈んでいく姿を想像する。

葬式の場、皆が主人公の復活・再生の原因を詮索するなかで、
自らの癌を知っていたのではないかという言葉に、息子は、
「それはない。だったら私に言ってくれるはずだ」という。
息子は息子で父を信じ父を愛する気持ちがあった。
ただ、すれちがっていたのだ。

親が死んで初めて気づく、後悔しても取り戻せない時間がある。
親としてどう「生きる」か。
そういう目であらてめてこの映画を見る機会になった。