2011年9月20日火曜日

たばこ

今、尾道市のマナー啓発キャンペーンプロジェクト
第一弾で、喫煙マナーのコピー作成のお手伝いを
している。

不快なものだと思えば、わずか残るにおいさえ
我慢のならぬものになる。
朝一番 目の前20mを歩く人のくわえたばこの
煙を吸わされれば "なんでこのさわやかな空気を
あなた一人の嗜好のせいで汚されなければ
いけないのか”と思ったりもする。

子どもをつれているときはことさら神経質にもなる。
よその子供でも、そばで無神経にたばこを吸って
いる親の姿をみると胸が痛む。

こういう啓発コピーは吸う人のたちばでコピーを
考えるわけだから、あたまごなしに全否定した
ところでなかなか態度変容には結びつかない。

かつて短期間でも喫煙経験があるものとして、
バランスを考えながらことばを選んでいて
思いだしたことがあった。

広島大学の学生だったころのことだ。
故稲賀敬二先生はパイプをお使いだった。
院生発表会や、学部3年4年の発表会などで
広い教室のなかほどにお座りになって
パイプでたばこを召しあがりながら
学生の発表をきいていらっしゃる。

そのとき何列も後ろに座っている自分の
ところにもその香りが漂ってくるのだが、
これが実に良い香りなのだ。

たばこの煙にいまほど社会が神経質で
なかった時代であったということもあるが、
それにしても不快な感じのまったくしない、
芳香というのがふさわしいものだった。
先生の背中とパイプと煙の香りは一つ姿で
思い出になっている。

もうひとつ。
広島市の皆実町にかつて専売公社があった。
いまはショッピングモールになっている。
わたしの通った中学高校は、御幸橋を
わたった対岸の南千田町にあった。

体育の授業などでグランドにいると、川向うの
専売公社から、ふうっと、たばこの葉のにおいの
微かに混じる風がふいてくることがあった。

べつにいい香りだとうっとりするという
ことではないのだが、
あ、向うの工場のたばこの葉のにおいだ と、
微かであるだけによけいはっきりと感じられて、
意識がとぎすまされるような感覚があった。

10代の多感な時期の記憶と結びつくその香りは、
決して不快なものではない。

世の中嫌煙の動きが著しいし、自分も、たばこ
なんてこの世からなくしてしまえばいいのにと
思うことがないわけではないけれど、
どこかで、私が愛おしく感じたたばこの煙が、
世の中から完全に消えてしまうのは
つまらない…と思う気持ちもある。

みんなが幸せになれるかたちで、
たばこ文化が残っていけばいいのにと思う。

2011年9月7日水曜日

「わかりやすさ」への疑い

(2003.9 広島女学院大学チャペル便り掲載)

 授業で何かがうまく説明できた(と思う)とき、そして学生からも分かったという反応があった瞬間があると教師はうれしい。しかし、まてよ、と思う。本当にそれでいいのか。私は事をわかりやすくするために資料をねじ曲げてはいないのか。いや、そもそも本当に自分は説明しようとしている対象を正確に理解しているのかと思いはじめて恐ろしくなる時がある。
 私たちのまわりには、そんなに単純には説明できないことがらを、簡単に説明し、結論づけているものがあまりにも多い。マスメディアにはそういうものがあふれている。ものの本質をみないでわかりやすい結論を与えてしまい思考停止におちいる。
わかりやすい授業をめざしているときに、ふと、自分がやっていることは、これと一緒なのではないかと思う。わかりやすさ、良い反応をもとめるあまり、複雑な現実を必要以上に単純化して説明していないか。行き過ぎた解釈・早急な結論づけに走っていないかと思う。学生にそれを見ぬく目があればよい。おまえの授業はうさんくさいぞと。おもしろいけど本当かと声をあげる力があればよい。そういうだけの本物を見ぬく目を私たちはそだてているのか。いくら、授業の表面的なテクニックがすぐれていても、中身がなければ「あなたの話はつまらない」といえる本物の力をそだてているだろうか。
 自分が学生の評価を受けるときにいつも思う。学生に媚びていないか。おまえは本当の力をつけているか。学生の成長をスポイルするような「わかりやすさ」を求めてはいないか。
 過激で、単純な主張はおもしろい。ややこしいこと、とりとめのないこと、矛盾だらけの現実のあれこれを、まじめに誠実にとらえようとすると、それはあまりおもしろくないものになる。なにかのテレビで見たなかでのことばだが、飲食業では食べてすぐ「おいしい」と客に思わせるのは簡単なのだそうである。単純で過激な味にすればいい。すぐはよく分からないが、あとになって本当によさがわかるようなものは、今の時代やっていけなくなりつつあるとしたら、それは悲しいことである。
わかりやすさは大事である。しかしそれは、事実を丁寧に慎重にみつめること、時間をかけ論理性に磨きをかけていくこと、そして相手への思いやりと敬意に支えられた表現の陶冶によるべきである。
ではどうすれば本物を見抜く力がつくのか。本物は時を越えて生き抜く力を持っている。偽物は消えていく。時を越えて生き抜いたものとは古典とよばれるものである。文学でも音楽でも映画でも絵画でもいい。これに多く触れることである。決して簡単ではないだろうけれども。