2012年12月6日木曜日

私の先生(3)山室雄幸先生

広島県安芸郡府中町府中中央小学校

山室雄幸先生

小学校三年生のときの担任をしてくださった先生。

あのころ何歳くらいでいらっしゃったのか40代か50代か。
自分が教員の道にすすむ直接間接のきっかけになった先生を思い浮かべると
何人かおられるが、そのなかで最初に思い浮かぶ先生である。

いまでいう読み聞かせをしてくださっていたのだが、特に椋鳩十の作品をたくさん読んで聞かせてくださった。
お上手だった。お話を聞くときのこどもの集中度が今考えてもすごかったような気がする。

読書の楽しみ、朗読の楽しみからいろんなことを教えていただいた。
初めての男性の先生で、父と同じくらいの年齢の先生だし、とても威厳があるのに威張らないでおちゃめなところもあった。

連絡ノートを書かせておられた。
日付、明日の授業の時間割、宿題、もってくるもの、などを
終わりの会で先生が口頭でお伝えになる。私たちはそれを耳で聞いて書き取るのだ。
そしてその最後に日記のようなものを書く。長くなくていいから今日あったこと、体験したことを書く。そして親のチェックをもらってくる。
それがきっかけになって、6年生まで日記を続けていたのだから、結構な教育効果があったと思う。

運動もお得意で、体育の授業はお手本を見るとほれぼれした。子どもが大人の
動作をみるので3割増しくらいにみえるのだが、それでも先生ってすごいと単純に尊敬した。

児童が少し集中力を切らしたときなど、よく「瞑目」といって
おへその前で親指と親指をあわせ、印を結ぶような形にして目をつむらせ心を落ち着かせる時間を作っておられた。
「メーモク」ってなんだろうかと思いながらやっていた。

4年生も持ち上がりで担任になるかと思ったらなにかの御事情で4年生は担任をもたれなかった。
とてもがっかりした。だからというわけではないのだが、4年生になって府中のご自宅に友達三人と遊びに行ったことがある。大きな平屋の建物だった。家では和服を着ておられた。
大きな家なのに借家だというのでびっくりした。我が家も長らく借家住まいでその当時も小さな家にすんでいたから、借家というのは狭くて小さいものだとばかり思っていて、こんな借家もあるんだと思った。
どうしてその三人で先生のお宅に遊びに行くことになったのかよく覚えていないが、今ならあまりそういうことはできないのだろう。

三年生のときが昭和50年。カープ初優勝もあって自分のなかではなにか基準になる年になっている。

2012年12月5日水曜日

私の先生(2)東田みずほ先生



広島県安芸郡府中町 府中中央小学校

東田みずほ先生

小学校1・2年生の先生。音楽がご専門だった。
町の作文コンクールがあった。祭で買ったみどりがめの
飼育の様子をことこまかに書いたものに目をとめていただいて
コンクールに出すことになった。
夏休みだったか、ずいぶん添削と書き直しの指導をいただいたのを
覚えている。文章を書くというのは時間と根気がいるし、
書き直せば直すほど確実によくなっていくものなのだということを
教えていただいた。


小学校にオーケストラを呼んで生の演奏を聴かせる企画があった。
やはり1年生だったとおもうが、ちょっと集中をきらしておしゃべりをした何人かが
ずいぶん叱られて放課後残された。私もそのなかにいて
しばらく怒られ続けて情けなくなって涙が出たのを覚えている。
小学校では絶対泣かない。涙を流すのは恥ずかしいと思っていたから
泣いてしまった自分が悔しくてまた涙が出た。

在校中にご結婚なさって山本姓になられた。
先生が結婚して名前が変わるのも、ちいさな子どもにとっては
結構なできごとだった記憶がある。

2012年12月4日火曜日

私の先生(1)佐野先生ご夫妻

広島県安芸郡府中町若竹保育園の佐野先生ご夫妻

私が人生で始めてであった先生。
 
 園長の佐野文枝先生は、ピアノがお上手で「ピアノ先生」と呼ばれていた。お遊戯会の挨拶の役を仰せつかったときにお部屋で練習したことを思い出す。やさしい先生 だった。当時矢野保育園で保母をしていた母は、私を乳児で園にあずけた。母は産後かなり早い段階で職場復帰をし、普通は預けられないような月齢での保育をお願いしたのだと聞いたことがある。ずい ぶんあちらこちらに迷惑をかけながらの子育てだったらしい。

ご主人の佐野先生は、体格が大きくてめがねをかけたやさしい先生だった。

園庭でいつも野球かサッカーをしてくださる。野球の時は子どもをホームベースの前にならばせて、「こっちがカープ、こっちがジャイアンツ」とチーム分けをされる。まだカープが弱く、朝の体操も「巨人の星」の主題歌でやっていた時代。「カープ」と言われた方ががっかりし、「ジャイアンツ」といわれたほうが喜んでいたのはご愛敬だ。後に知ったが早稲田大で野球をされていたらしく、野球をさせたいということについては特別な思いをお持ちだったのかもしれない。サッカーなぞは、手を使ってはいけないよというだけでゴールがどこかも分からなくなるようなお団子サッカーだった。園庭からいつのまにか裏庭までいってしまって、みんなでボールをおっかけて敷地内をぐるぐる回っていたこともある。




 いまになってみればあの小さな保育園の狭い園庭が私の世界の始まりでありすべてだった。小さく狭い家から父に手を引かれていく保育園までのあの狭い道は、こどもの私にとっては広い道路だった。

もうおひとり。お世話になった先生が寺田先生。

ベテランの先生で、母もなにかと頼りにしていたのであろう、寺田先生は担任だったかどうかも定かではないが、お名前とお顔はいまでもよく思い出せる。寺田先生のご主人は個人タクシーを営んでおられ、仕事で迎えの遅くなった母は、園のうらにあったこの寺田先生のご自宅でわたしを預かってもらっていた。なぜだったのか「ゴンドラおじさん」と呼ばれていて、ご自宅のお風呂にいれていただいた思いでもかすかに残っている。

大事にされ、柔らかく優しい愛に包まれていた時代だった。