2011年8月28日日曜日

社会が子どもをそだてる


核家族化など過去の話で、すでに3世代同居を選択し経済的な負担を軽減し子育てのフォローを両親に求める人が増えている。賢明なやりかただし、それしか選択肢がないという差し迫った経済状況におかれている家庭もあるだろう。
私と妻はいろいろな条件があってそれができず、かなりしんどい思いをした。親の助けがあったら…と思う状況は何度もあった。当然仕事を犠牲にしたり回りに迷惑をかけたりしたこともあった。男親としての育児休暇もとりたかったが踏み込めなかった。
私自身も、両親が共働きで、それまで経験のなかった保育園が、ゼロ歳児保育をした最初のケースだった。やはり保育士であった母は育児休暇を取ればとれたが、職場への早い復帰を選んだ。本人の中でも葛藤はあったのだろうが、結果的に私はかなり早い段階で母親との接触時間を短かいものにした。それが私のその後の成長にとってプラスだったのかマイナスだったのかは分からない。私と言う人間のありかたを一つのサンプルにしてもらうしかない。
私の両親も、双方すでにたよるべき親をなくすか、その接点を失っていて、フォローに回ってくれる親が無かった。当然、だれかに預けなければならない。子どもが熱を出せば自分が迎えに行くまで誰かが見ていなくてはならない。親の仕事に不如意の状況が発生すればだれかが保育時間外のフォローをしなくてはならない。
思えば、保育園のとなりの山根さん、保育士の寺田先生のお宅など、いろいろな方々がそのようなケースに対応してくださっていた。かなり迷惑をかけていたのだろうが、そういう社会のフォローがあってなんとか私は育った。親には酷な言い方になるがまさに「社会に育ててもらった」ようなものだ。

しかし、これからの社会は、いまのままでは、こういう御近所づきあいのなかの好意を前提にした「家族外からのフォロー」がしてもらえなくなるだろう。私たち夫婦の子どもの場合は、これも幸い御近所とのコミュニケーションもとれており、何かあったらいざというときはお願いできるような関係は作れていた。が、それはたまたま、古い近所づきあいの慣習が微かに残る、子育ても終えた高齢者の多い団地だったからという幸運があった。いざというときに助けてもらえるように、こちらからも積極的に地域にかかわり、挨拶をし、子どもの顔を覚えてもらいという努力もした。もしニューファミリーばかりのコーポやマンションで、周囲にそういう関係をもちえない状況におかれたらどうだったろう。もしものために日ごろから御近所づきあいを大事にしなさいというような生きる知恵をさずける大人もいない孤立した若い親がいた場合、このような好意にすがったフォローは無理だ。

そうなると、制度的に「社会が、他人の子どもをフォローする」ということを真剣に考えなくてはならなくなってくる。それが、好意を前提にしたボランティア登録などではなく、義務化されるところまでいくかということを考えてみなくてはならないかもしれない。実際、小学校などの登下校などの親の輪番での横断歩道の朝立ちなどはある意味この理念に基づいている。あなたの子供を守るなら、他人の子供も守らなくてはならない。拒否できない当番だ。「しょうがないけど当番だから」の拡大された社会的養育義務の概念だ。そんなばかななんでわたしがよその子の面倒をみなくてはならないの?といっていられない時代がくるかもしれないということだ。もしそうなれば「○○さんの家の子を何時から何時まで預かれ」というような強制力のある命令は可能なのか。それを拒否するとどうなるのか。いやさすがにそれは極論だ、それは無理だということで好意を前提にしたボランティア登録制度をつくるといっても、もうそれもかなわぬ社会になったらどうする。好意を前提にした登録者が危険人物でないと言う保証をだれがする。だれがそのリスクを負う。「まあなんとかなるよいままでもなんとか助けあってきたんだから」、が通じなくなってきたから親に殺される子どもがでるわけだ。

身も知らぬ素姓のわからぬ相手に、「ちょっとみててくれ」と我が子を預ける事は常識的にしないというだろうが、それも分からない。パチンコに興じ我が子を車中に置き去りにして死なせてしまう親、子どもを放置して夜遊びに出る親、そういう親なら抵抗なく素性のわからぬ第三者であっても預けるかもしれない。「おたく、みててくれるんでしょ。ちょっと頼むね」といってそのまま逃げるかもしれない。

「社会がこどもを育てる」というのは理念としてはまっとうで、しかもそれは真剣に考えなくてはならない喫緊の課題だ。それは情緒的に理想として語るのではなく、さまざまな現実的課題をドライにシミュレーションしクリアしながら、制度化しなくてはならなくなるだろう。
 「介護保険制度」では、老いていく自分たちの将来を支え合うための互助的制度がつくりえた。それは皆が老いていく自分のすがたをイメージできるからだ。子どもの問題は直に我がことではなくなる。自分はもういなくなる次の世代の世の中をどう準備してやるかと言うことだ。これをイメージして具体的に手をうつことはどうしても後回しになる。自分自身の身はいたまないから。
 子育ての渦中にいるものはこのことを考えるが喉元をすぎれば忘れてしまう。

ツイッターでフォローしているある人がこの話題で別の人からずいぶん噛みつかれていた。噛みついた人の物言いもかなり異常で極端だったが、その「バカ・死ね・くそわろたwwww」を連発して噛みついた人がtogetterでまとめたものを見ると、存外この人はやさしい人なのかもしれないと思った。本当に馬鹿だと思うなら構わないだろう。馬鹿をほおっておけないで論破しつくすまでつきあうのはある意味相手への愛だし、リアルのこの人は穏やかな人なのかもしれないなと思った。
それ以上に、この噛みついた人が言っていることは、本気でこの問題を考えるならなるほどこれは避けて通れない、見逃していた問題だと思うところがあってまとめておいた。

2011年8月27日土曜日

境界線

私は職場で連絡を受け、その足で車を飛ばし帰る。

午後3:32 尾道を発つ。

車中妻らから連絡を受ける。「何時に着けるか」。すでに一度止まりかけた心臓を、私がかえるまで何とかということで心臓マッサージで復活させ、人工呼吸器で持たせているらしい。千葉の姉に連絡。

午後4:40 病室につく

ポンプの動きにあわせ上下する母の肺をみて、これはポンプの律動であって人の生ではないと直感する。医師から経過・現在の状況と、もって今晩中か、何時間後かのことと説明をうける。

結果的にそれから1時間もかからなかった。ベッドの横にいて、ただその時を待つ。デジタルのメータが示す脈と血圧の値を見ているうちに、一体今自分は何を待っているんだろうと不思議な気分がしてくる。

蝋燭の火を見守るように待っている。なにを待っているかというと消えるその瞬間をまっているわけだ。考えてみれば、永遠普遍のものであれば見つめる対象にはならない。見ていたって変わらないのだから。そうか。変わり遷ろうからこそ私達は対象を見つめるのか。

ん?この「待つ」状態が終わるのは死ぬ時だな。ということは、私はいま母の死を待っているのか。待つという行為は「その結果が望ましくない」時にすることだったか?どうだったっけと混乱するのである。私は望まないはずの母の死を待っているという不思議な状態に置かれてしまった。

このような、臨終前の時間帯の、命が最後にゆらめく時間帯というものの認識は一昔前はどうだったのだろうか。今のようなデジタルな可視化できる器械がなければ、そのゆらめきは認識できなかったのではないか。「もうあぶないな」と囲んでいるみなは、なんとなくは分かっていながら、それはいつくるかわからないものとして待つ。その瞬間を医師に確認してもらい「ご臨終です」ということばを発されるまでは、確かに「生き」ている。onはonだ。「死」が立ち現れる瞬間まで、生きていることを信じ死なないでくれと声をあげることができる。そこにある時間は、量的に(空間的に)把握することのできないものだ。ベルグソンのいう「純粋持続」とはこれかとも思う。

ところが、そのゆらぎの時間がデジタルで可視化されると、ゴールであるゼロ状態を意識する。数値の下降をみれば、残された時間を量的に意識する。いつくるかわからぬOffの瞬間まで生を期待し信じるという昔ながらのドラマチックな臨終の場面はなくなってしまう。そして目盛を見つめながら「順調」に減っていく「残された時間」を待つことになってしまう。

5:21 脈が40を切りランプの赤がつく。

5:22 脈の数値が0になる。

5:25 ドクターが確認、死亡時刻は5:25分となる。

悲しむ暇もなくその後のことを処理し、どたばたの中で臨終の瞬間のことを思う。待てよ、私は、母の死を、あのデジタルな目盛がゼロをさしたことで認識したが、あの器械のゼロの目盛はなにを意味するんだろう。器械が測れる電気的な信号のあるレベル以下になってしまったと言うだけであって、本当に完全なゼロだったんだろうか。針は振れはしないが、微かな脈ともいえぬような命のかけらがあったんじゃないだろうか。

物体としては、(例えは悪いが、締めたばかりのまだ活きのいい魚のように)なんら生体と変わりは無い。健康体ならすぐさま移殖臓器の切り出しが始まるではないか。

人の死というものはいったいどこで決まるんだろう。生と死の境は、ミクロにみたときどこで決まるんだろう。脳が活動していなければ心はもう失われているのだろうか。母の精神活動はもう失われているんだろうか。ただの「物体」なんだろうか。本当にそれは脳の活動なんだろうか。理系の人が笑うであろうレベルの問だというなら、笑えばよい。そういうことを、あらためて揺さぶられてしまった。

一週間ほどして、なにかの拍子に手にした臓器提供カードに、迷いなく提供の意思を書き、日付を入れ、妻に署名をしてもらった。

死んだ私が言います。

私は、今脳死状態です。脳波もないし、ポンプを止めれば即心臓も活動を止めます。死んでいるものとしてもらってかまいません。ですが、私自身は生きています。

私の臓器のあらゆる部分を必要とする人に使ってもらってください。どこでも、どんなかたちでも構いません。ただし、私はそれを生きた存在として行いたい。死んだ者の戯言ですから無視してもらって構わないのですが、私は生きながらに臓器提供をしたいのです。私が人としてできる事はこれくらいのことです。

そんな気分だった。

2011年8月9日火曜日

私は8月6日が嫌いだった

8月6日が近付くと、街は騒がしくなってくる。中学生くらいになるとこの騒がしさに居心地の悪さをいつも感じていた。政治の道具にして騒ぎにきているだけだ、彼らに服喪と祈りの気持ちはないのだと思っていた。

直接体験した者からは、いくら視覚化され言語化されても本当のところは分からないと言われてきた。実際どんな言葉を聞き、どんな資料を見たとしても、それは彼らの経験したものの断片にも足らないものだろうという実感がある。理解したい、受け継ぎたいと思えば思うほど、絶望的な限界と孤独を感じる。

自分は当事者側の「内側」の人間だと言う歪んだ逆選民意識のような思いと、だからこそ感じざるを得ない直接体験者たちとの壁。「平和」「ヒロシマ」ということばを斜に構えてしか見られない屈折した感情。そういうジレンマの中で、「外側」から屈託なく平和をさけび行動を起こせる人達への嫉妬もある。

生まれて初めて、「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の会場内に入り遺族席にすわった。式典会場の中で静かな祈りに包まれると、そういうことが相対化される。自分の中にあったつまらないこだわりが消えていく。「内側」にいれてもらった感じがしただけなのかもしれない。でも確かに、8月6日の喧噪を今までのとは違うった感じ方で穏やかに見ている自分がいた。

 なにが起こったかということを事実として知ること、それは場合によっては自らの悲劇を相対化することにもなる。確かに広島と長崎の被爆は人類がそれまでに経験のしたことのない出来事ではあった。だが、「福島原発で放出された熱量の総量がウラン換算で、広島型原爆の20個分」といわれたとき、「広島で1年で1000分の1に低下する放射線残存量が福島では10分の1にしかならない」という事実を知った時、私はハッとする。そして一瞬にして、大事な家族と日常を波にさらわれた人達、瓦礫の山になった町をこの目でじかにみたとき、私は何を思い、感じるのだろう。

 ありようは違えど事の困難さは同様に、いやもしかするとはるかに複雑で深刻であることを客観的に突きつけられる。重い殻を背負っているのは自分だけではないことを実感として初めて知る、その己の無神経さに気づかされる。

 当たり前の生活を失い大事な人を失う悲しみ、そこにあるひとつひとつの命の重みに重い軽いはないというあたりまえのこと。

そんなことを感じながら息子と原爆ドームの周りを歩いた。